10周年企画として改めて過去を振り返ってみようと思いました。
がむしゃらにそして無我夢中で走ってきた二十数年をここに記録として残しておこうと思います。
〜若葉の頃〜
造園業に携わったのは21歳の頃。
初めの会社は道路の草刈り、土手の芝張り、公園の刈り込みや草刈りばかりだった。
それでも草刈りができたらいい方で新人の私は2年近く掃除だったのを覚えている。
決して厳しいわけではない、年功序列という文化と年配方の時代だったのでただそういう状況だっただけだ。
私は音楽を夢中でやっていたので仕事のことはどうでもよかった。
木の名前も覚えようとしなかった。
音楽以外まったく興味がなかった。
それでも仕事はしているので剪定方法などを聞くとブツブツ切ってるのを見て何か違う、綺麗じゃないと当時から思っていたのを覚えている。
〜庭との出会い〜
仕事に身が入らないまま会社も変わり、27歳。
バンドも解散したので人生をリセットして1から人生を始めようとありとあらゆること一度やめた。
そんな中、前職で知り合った先輩に偶然会い、造園業で独立して忙しいから繋ぎでアルバイトに来ないかと誘われて行くことに。
そこは下請けの仕事ばかりだったがその時に偶然庭の世界を知った。
そこには少し楽しいと思った自分がいた。
人生を新たにスタートしようと思った時に音楽で培った「無から有を生み出す感動」を仕事にしたいと思っていた。
そんなときまた偶然にも一冊の庭の雑誌に出会った。
その本には自分の知らない世界が広がっていた。へ
ページをめくるたびに
「なんだこれは」
「どうなってるんだ」
「作る人が違うだけでこんな世界があるのか」
「これも同じ造園なのか」
そう思ったら[知りたい、学びたい欲求]が溢れ出していた。
次の日には「この庭づくりを5年で習得し独立する。」
そう決心していた。
その会社の親方に庭づくりがあるか尋ねたら「今後庭だけでやってくつもりだ」という。
「よし、それならここで覚えよう」と決心した。
しかし、それは全部嘘だったことを後々知る。
毎日他社に出向いて草刈りと剪定ばかり。
何ヶ月か過ぎ「庭づくりはいつありますか」と尋ねると
「今、見積もり出して返事待ちだから待ってろ」と。
また何ヶ月後かに聞いても同じ答え。
その親方はかなりのパワハラ気質で機嫌で怒鳴る、無視は当たり前。
私はここで技術を得て独立すると決めていたので我慢した。
ただ、目の前の仕事がどんなことであれ真摯に向き合った。
そして意地でも休まなかった。
熱が39°cを超えても現場にでていたこともある。
それは少しでも経験値を増やしたかったからだ。
まだ救いだったのは剪定の仕事がが多かっだことだ。
しかし誰も教えてくれない。
そのため自分で考えてできる時間がたくさんあった。
あの時、時間の無駄だと思わず考える時間に使ったのはのちに生きてくることになった。
それが今の手入れの礎となっているのは間違いない。
しかし、4年半たっても庭づくりは一件しかなかった。
もう30才も過ぎこのままじゃ庭づくりを覚えるどころか独立もできないと思い、見切りをつけて辞めた。
「お世話になりました」と最後に挨拶すると無視された。
ちなみにその会社で2回の大怪我と本気で2回死にかけました。
その頃は若く、独立に向かって無我夢中で働いていたので思考が麻痺していたのかもしれない。
今思い出すとゾッとします。
その後、もうこの年齢から修行するには遅いと思い独立してから学ぼうととりあえず独立に向けて地元に近いS造園に就職した。
〜修行期間へ〜
そこは手入れ(剪定)中心だったので自分の自然風剪定のスタイルを通した。
やはり新参者で昔からのゴリゴリの刈り込みばかりの人達に透かし剪定は認められなかった。
いや、理解してもらえなかったと言った方がいいかもしれない。
※今考えれば見たこともやったこともない技術を使う人が後から来て受け入れる方が難しいか。
それでも自分を信じ我を通した。
その自然風剪定が今は少し浸透してきてるのは自分の美的感覚を信じたおかげだと思う。
しかし、その頃は誰にも認められずいつ独立できるのだろうかと不安に狩られていた。
そんな中、ふとしたことから庭の講習会などがあることを知り飛び込むように参加した。
そこには自分のやりたい世界が広がってた。
講習会で東京に出向き、周りを見渡せば全国から集まる血気盛んな若い庭師たち。
私は庭師にしてはだいぶ出遅れ組。※それが後になってよかった。
そこには私が見ていた雑誌に載っている親方達や先輩たちがいた。
初めて参加して、講習会が進むにつれ全国の猛者達に怯まない自分がいた。
独自で学んできたことや自分の考えが間違っていなかったからだ。
そこから何か講習会あると必ず参加した。
講習会後の懇親会もすすんで参加した。
そこで全国の親方達の話を伺いながら「現場があれば無償でいいので入らせてください」とお願いして回った。
もちろん最初はなんの修行もしてない、何処の馬の骨かわからない私は相手にされなかった。
それでもやりたいという熱量だけで続けた。
この頃講習会には必ず出席していたので顔見知りも増えたおかげか、ついに現場に入れる機会に恵まれた。
そこは庭の予算が何千万もする寺院の庭だった。
泊まり込みで5〜6人で毎日走り回るような現場。
そこで私は初めての本物の庭づくりを体験した。
しかし、私は技術もなく何もできないのにそれを隠そうとできるフリをしていた。
長年造園業に携わってきて歴だけ長い空っぽの自分。
知らない間にプライドができていたのだ。
そんな自分をみて現場の親方は
「何しにきたんだ?やる気がないなら茨城帰れ」
親方には見透かされていた。
その夜、番頭さんに
「お前は庭師としてのスタートは遅い。というか何もやったことないしできないだろ?それでもこれからやりたいと思って来たんじゃないのか?
人生変えにきたんじゃないのか?だった明日謝ってしっかりやれ。何もできないからここにきてるんだろ?ここまできてプライド捨てられないなら帰ったほうがいいよ。」
自分の中で全てが変わった瞬間だった。
プライドというガチガチの鎧を脱ぎすてた瞬間だった。
それと同時に自分の人生が変わっていくのを感じた。
気持ちを180度変えてから毎日、毎時間、毎分すぎるたびに[自分の人生が1分1秒夢向かって変わっていく]瞬間を体験していた。
あの感じは今でも忘れない。
お昼ご飯もおにぎり一個で充分だった。食べてる時間が勿体無いと感じていたくらいだ。
二週間後。帰りの電車で日本一自信に満ち溢れていただろう。
そらくらい辛く楽しい時間だった。
※二週間で3キロ痩せていた
あの時があるから今がある
今でも誰よりも現場で走り、誰よりもスコップで穴を掘ってるのはあの時があるから
それはこらからも変わらないだろう。
〜決意〜
当時私はまだ勤めていた。
その寺院の庭の現場に入りたいらがためにS造園の親方に許可をもらっていた。
ただし条件があった。
それは「半月そっちで半月こっちで働いてくれ」とそう言ってくれる優しい親方だった。
その生活をつづけ、その寺院の庭の現場も半年後には完成した。
※その庭が雑誌に載ってるのを見た時は感動した
足掛け半年出入りした私はもう庭づくりがやりたくて他のことが手につかない状態だった。
地元に戻った私はすぐに畑を借り、ボロボロの軽トラを買い、近場でいらない石をもらっては集めていた。
仕事後は畑で連日連夜石積みをして修行期間に入った。
時には竹林に籠りひたすら竹を捌いて竹垣を作ったり、廃材や丸太を集めてはチョウナがしたり、塀を作ったり、石積みも作っては壊し、作っては壊しを繰り返していた。
当時、同棲したばかりで妻は「1人の時間が欲しいから帰り遅くなってもいいよ」と言ってくれた。
仕事後畑に直行し毎日夜遅くまでやっていたのを覚えてる。
当時は真冬の夜でも半袖になるくらいの熱量だった。
そして庭づくりへの情熱が抑えきれず勤めていたS造園の親方に[自分は独立して庭づくりでいきたい]と伝えた。
もう止められないと思ったのだろう。
許し、応援してくれた。
「お前は最初から何か違うと思っていたよ」
勘のいい人だった。
そして半年後、決まっている仕事が4日間しかないにも関わらず独立した。
信じられるのは自分だけ。
あとはやるのみ。
2014.1.1 決起
続く。