2014.1.1をもって[J.L.Design 日庭]として活動を開始したわけだが独立開業と言っても、1/4〜4日間、頼まれていた友人宅の手入れ仕事しかなかった。
あったのは自信だけだ。
独立するということは自ら立つということ。
前の会社にもお世話にならない、周りの造園業の方にもお世話にならない、手伝いで生計を立てることそれは独立とは言わない。
自分の中でこの思いが強くあった。
やりたいことをやるために始めたこと“誰かの世話になって生計立てるのは違う”と今考えると意固地になっていただけだった。
周りと繋がりも大切だと今は感じる。
独立にあたり親には反対された。
「お前には無理だ」と。
その裏には親父が自営業で失敗してるからだ
[親は親、私は私]
何も気にはしなかった。
もともと親の言うことを聞くようなタイプではない。
もちろん頼ったこともない。
寄り添われたこともない。
寄り添われたこともないというのは言い過ぎだが干渉しない親子関係なのでお互いにいつも自由に生きていた。
それなのに言ってきたので一回ムカついた(笑)
※後に親の愛情を知る
そしてもう一つ。
(2013/12/24)にプロポーズし、その一週間後に退社、独立をした。
仕事もないので世間から見れば程のいいフリーターだ。
妻もよく何も言わなかったと思う。
ただ妻には[条件付きの3年間]というを言われた。
3年間のうちに基準の生活費を入れれなかった場合、自営業をやめ、務めること。
それだけ守れば自由にしていいのと。
私としては[よっしゃ!]だ。
燃えていた私は逆にいえば[決められた生活費だけ家に入れればあとは現場に全部お金を使える!]と超前向き思考だった。
私は希望に満ち溢れていた。
不安がないと言えばいまだに不安ばかりだが持ち前のポジティブさで「人生一度きり、今がチャンス」と学べることを学ぼうと切り替えた。
友人宅の剪定が終わってからは独立開業したという話が縁を呼びタイルの改修工事、ウッドデッキの助手、土間コンクリート施工、など造園ではない仕事を半年以上していた。
庭づくり、庭工事をしていく糧にしていこうと、いただいた仕事はなんでもこなし、経験していった。
その頃半年以上ハサミを持たなかったと記憶している。
順調かといえばそうではない。
仕事しては夕方から置き場で特訓そんな日々。
自分の庭仕事がない日々。
心の支えは祖父母だった。
私は故郷の北海道で生まれ育ち、小さい頃から貧しく、両親は共働きだったため(父は出稼ぎで半年いない)農家の祖父母のところで面倒を見てもらっていた。
畑、川、山が遊び場でいつも農作業の横遊んでいた。
今考えれば親みたいな存在だった。
10歳で茨城に来て、祖父母に会いたいが思春期で電話で話すもの照れくさい。
自然と電話もしなくなっていた。
自分で携帯を持ってから27歳くらいまで一度もかけてないのではないだろうか。
そんなある日、色々なことを思いながらも何も考えずに電話した。
何を話すわけでもない。
私「そっち寒い?」
祖父母「しばれでしばれで、今日も吹雪いでら」
私「そっか。風邪ひかないようにね」
そんな会話だった。
しかし最後の一言が私の辛い日々に勇気を与えてくれた。
「一生懸命頑張りなさい」
ごく普通の言葉だ。
その時の私には深く響いていた。
70代の祖父母
まだ現役農家だ。※2024年 祖母84歳現役
自信だけで仕事がない状態
乾き切っていた心
乾く?70代(当時)がまだまだ現役なのに俺は何を言ってるんだ
そして“その一言”を聞きたいがために定期的に電話をするようになった。
それは今でも続いている。
〜自分の仕事〜
初期の頃はよく大工さんの友人のところによく手伝いに行っていた。
実際はおやじさんが私の大工の師匠だ。
雨の日はもちろんの事、月に7日間以上はいっていた。
おやじさんは博識だった。
大工のことはもちろん、天気、政治、地軸や機械、金融など何聞いても答えててくれた。
何の料理でも酢を入れる人だった。
その頃、その大工さんところでは面白い仕事が多く。
古民家改修、保育園のリフォーム、接骨院のリフォーム、新築住宅、増築などだ。
時には24時を過ぎることもある。(26時とか)
私は庭師ですけどともいえず黙々と床張りしたり、腰壁張ったり、天井の下地を組んだりしていた。
庭仕事の一つとして木工事のレベルアップもしたかったからもあるが小さい頃の将来の夢は大工さんだったこともある。
私の小さい頃は大工は職人の花形、あこがれだ。
手先は器用な方だが発想が出てこないタイプで何かモノづくりするのは好きなのだが何を作ればいいのかわからないタイプだった。
小中学生の頃、工作をするのが好きで大工さんいやりたいなと思っていた。
そんなこんなである日その大工さんのとこでウッドデッキの施工をした。
そのお施主さんには大工さんだと思われていた。
後日友人が庭師だということを言ってくれてそれからお手入れをお願いされるようになった。
その方とはもう10年のおつき合いになる。
そのうちから広がって何年かでその住宅地のお手入れを何件もさせていただいた。
少しづつ広がるかに思えたがそうんな甘い世の中ではない。
独立した年の目標は[工事を4件やる]だった。
結果は強引に4件にして達成できた。
芝張り、石積みの坪庭などだ。
それでも仕事は全然なかった。
しばらくして、独立前におこなっていた津々浦々武者修行をまた再開した。
以前は勤めていたため気が引けていたが独立した今は気兼ねなくどこでも行けた。
まさに全国行脚。
生活費を稼ぎ、飛び飛びではあるが月の半分は方々へ出向き、見て聞いてやって盗む。
そしてまた稼いで生活費入れてまた旅に出る。
時には事務所で寝袋で寝たり、バスタブで作業着を洗い、そこの事務所にある庭の本を読み漁り、寝不足でも現場は120%で率先して行っていた。
地元では「庭づくりなんかない」や「1年間自分(庭)の仕事で食っていける人はほとんどいない」
など言われたこともあった。
私はそういうのは気にしないタイプだ。
いや、気にするけど超前向きなだけだ。
私は信念は曲げない。
というか曲がらない。
不器用なだけだ。
私はこれでやっていく。
いや、齢34歳、もうこれしかない。
これがしたい。
庭仕事が好きだ。
その思いでがむしゃらに働いた。
当時の年間休みは盆、GW、年末年始入れても50日程度だった。
むしろ休みなんかいらなかった。
シフト制の妻の休みに合わせて休むくらいだ。
情熱が体を突き動かす。
2年目くらいからか栃木の庭師仲間のところによく手伝いに行っていた。
庭づくりが大半でいろいろ経験させてもらったし、身につけた技術も使わせてもらった。
それと私の石の仕事を教えてくれた人が愛知にいる。
2014の頃よく愛知に行っていた。
その当時の距離感は完全に壊れていた。
愛知はちょっと遠いくらいに感じていた。
※移動はもちろん軽トラ
何回も腰が砕けた。
師匠は石積み講習の講師をしていたのだが先にその師匠の現場に行ってしまったものだから付き合いで石積み講習に参加した。
2日でW1800×H600を野面積みした。
※意地で
※当時の写真 2014
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その頃たまたま建売をかった友人から庭作りたのみたいんだけどと連絡があった。
このチャンスをつかもうと予算はないものの請け負った。
というか友人夫婦が当時のプランを気に入ったくれたので、予算は決まってるものの施工させてもらった。
庭づくり前の日は緊張で寝れなかった。
なぜならその庭でその人のその家族の一生見る景色を作ることになるからだ。
“ほんとにこれでいいのか”
“もっといいプランがあるのではないだろうか”
そう考えると寝れなくなっていた。
当日の朝、全然寝てないはずが目は冴えていた。
現場に向かう道中も自分に何回も何回も問うた。
もう自分を信じるしかない
「ここでやらなくて、いつやる?」
「俺はこれをやりたかったんじゃないか?」
そうだ、今がそのやる時だ。
そして庭づくりが始まった
まずは2.5mの石積み。
毎日コツコツ積んでいった。
昼も食べることも忘れ、帰ったら座椅子に座りご飯を食べながら寝てたり(気絶状態
そんな日を繰り返していたら8キロ痩せていた
ほんとに俺は完成させることができるのか?
進んではいるが先の見えない苦しい中盤を乗り越えてなんとか石積みは二週間で完成した。
そこからテラス、植栽へと進む。
ちょうどGWがかかったので“自分は休み、休みの日に現場行ってやってただけ”という日当は発生しない休みの程で進めていた。
親父と休みだったため手伝えるか聞いてみたら大丈夫とのこと。
2日目に親父に
私「現場が予算なくてお金払えないんだけどいい?」
親父「親子なんだから別に気にしなくていいよ」
、、、
私はこの時父の愛情を初めて知った。
現場が終わり家に帰る
喋れないくらい号泣していた。
妻が心配して「どうしたの?なんかあったの?」と。
「親父が給料いらないって、、、」と伝えると。
「なんだよ。何か悪いことあったのかと思ったよ。いいことなら別にいいじゃん」
ドライだ(笑)
この年まで(当時34歳)お互い元気で私が独立したから親の愛を知ることができた。
干渉しない親子だと思っていたがちゃんと子供なんだなと。
ありがとう。
※その後この話(感謝)を結婚式のスピーチで話すこととなった。
現場の方はなんとか植栽まで進み完成することができた。
本当に命を削る庭づくりだった。
完成した次の日も用事もないのにいった。
一つ庭ができてこれからガンガン行くぞと思っていた。
もともとあった情熱に加えひとつ作ったことによりさらに燃えていた。
しかし風は吹かなかった。
誰にも伝わらず、分かり合えずの日々
次第に他の人に言っても伝わらないと。
心を閉ざしていった。
情熱は誰にも言葉を発せずに内で燃やすことにした。
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続く